1. HOME
  2. 読みもの
  3. 職人列伝
  4. 〈現場監督〉森田賢司さん

〈現場監督〉森田賢司さん

伊佐さんと20年、90棟以上の家づくりができて、しあわせでした。

《現場監督》 森田賢司さん

この春、伊佐ホームズが20年以上に渡ってお世話になってきた現場監督が引退の日を迎えることになりました(2020年取材)。森田賢司さんです。最後の仕事となる現場でお話を聞きました。

「初めて伊佐ホームズの仕事をやったのは、平成8年くらいだったと思います。その後、90棟以上の家を請け負うことになったのですから、伊佐さんとはぼくの建築人生で縁があった、ということですね」

その初めての現場は、現在、設計部部長をつとめる大塚隆が設計した千葉県松戸市の住宅でした。「現場監督」とは、建築の施工計画を立て、さまざまな職種の職人に仕事を発注し、工程や品質を監理、指導する役割を担います。松戸は当時、伊佐ホームズにとっては初めての土地で、人づてに紹介いただいたのが森田さんだったのです。

「正直であることが大事。できないことはできない。いったんやると決めたからにはやるしかない。結局、人間関係ですよね。伊佐さんと出会ってなかったら、もっと早くこの仕事を辞めていたと思います」と、森田さん。伊佐ホームズとしても、もっとも多くの家の現場監督をお願いしたのが、森田さんでした。

この家が3棟目だったという、当時20代後半の大塚を森田さんは、「清潔感があって精悍な、仕事ができる人という雰囲気でした」と振り返ります。一方、大塚は森田さんのことを「段取りがよくて、この人なら安心だなと思いました」。森田さんはもちろん社長の伊佐にも早いうちに会っていて、「豪快な方で好印象でした。上野毛で鰻もご馳走になったしね」と笑います。

図面通り進んでいるか寸法を測ったり。この先の工程にすすむにあたって、職人を手配したり、材料を用意したり。スケジュールを頭に入れ、常に目配りするのが、現場監督の仕事です。

最初と最後の現場を担当することになった大塚と。「ぼくは決断が早いので、森田さんもやりやすかったでしょう?」と、大塚。

森田さんは東京・目黒の生まれ。祖父の代から瓦工事業を営んでおり、自身には「職人の血が流れている」といいます。大学卒業後は大手ハウスメーカーに就職し、茨城の取手に配属。7年現場監督を務めてから独立しました。利益中心の体質に反発したからでした。「現場をきれいに安全にしようと、ていねいに養生したり資材を早めに発注したりすると、経費がかかると怒られる。僕は自分がやりたいようにやりたかった」

実際のところ、伊佐ホームズの仕事は複雑で、工期も長くかかります。左官、建具、タイルなど、ほかの現場では出番が少なくなってしまった職人仕事を活かしているのも一因です。現場監督にとってはラクではありません。それでも、いい家をつくりたい、職人さんたちにいい仕事をしてもらいたい、という気持ちで両者は通じ合ったのです。

「昔は蕎麦屋で出前頼んでも、甘くしてくれ辛くしてくれ、ご飯は少なめに、なんて注文できたでしょう。そういうことはほとんどなくなった。家づくりも同じで、いまは利益第一、薄利多売で1ヶ月で家ができてしまう。伊佐さんは同じかたちの家はないし、木を使うから気を遣うし(笑)、たいへんはたいへんですよ。数多くできる仕事ではない。でも伊佐さんに迷惑かけたくないという思いで、ずっとやらせてもらってきました」

大塚は「森田さんの現場はきれいなことで知られるんです。掃除が行き届いているのはもちろんですが、花を飾ってくれたりするんですよ」と明かします。森田さんは「造花ですよ」と照れながら、「整理整頓されてて、職人さんたちが怪我がないように。真夏なら冷たい飲み物を入れる冷蔵庫を用意したりとか。気が利かないとやっていけませんからね」と言います。

この日は愛妻弁当。海老に牛肉に卵焼き。「好きなものを全部入れてくれてますね」。

すぐ横の現場では、次の土曜日に開かれる上棟式に向け、4人の大工が作業の真っ最中です。「たいへんな仕事ですよ。朝は早いし夜は遅い。寒いし汚い。雨の日だって風の日だって仕事する。いまの子は一人前になるまでなかなか我慢できないよ。職人さんには、ほんとに感謝しかないです」

森田さんが育てた職人は、今後も伊佐ホームズの仕事を続けることになります。そして、森田さんが職人を仕切った家で、お客さまの暮らしが続いています。「伊佐さんとは生まれたところも違う、環境も違う、でも一緒にやってこられた。いいあらわせないようなありがたさですよ、本当に。僕は65になるけど、ずっとひとつの職業でね、それはもう幸せですよ。思い残すことはありません」

—『伊佐通信』12号(2020年)より転載—